『丹下健三』序文誌面

『丹下健三』序文より

丹下健三が 20世紀後半の世界を代表する建築家であることは、誰でも知っている。しかし、どのように生まれ育ち、建築家となってから何を考え、何につまずき、いかにして世界のタンゲへと成長していったのか、通して知る人はいない。こと作品だけをとっても、最盛期ともいうべき東京オリンピックプールと同時期に淡路島につくられた戦没学徒記念館の存在はどれだけ知られているか。なぜ、丹下はあれほどの作品の発表を拒んだのだろう。

改めて振り返ると、私たちは、たまたま見た作品と読んだ文と伝え聞いた話のほか、丹下についてちゃんとしたことは何も知らないのである。

そのような状態に立ちいたった理由は簡単で、丹下自身が自分の事歴を振り返ったり記録することにまるで関心をもたなかったからだ。たとえば、にわかに信じがたいが、建築展というものを一度も開いたことがない。MoMAからのたびたびの回顧展の申し出にも興味を示さずに今日まできている。

もちろん、 1985年に『日本経済新聞』の連載「私の履歴書」をまとめた回顧録『一本の鉛筆から』を出版しているが、肝心の建築とそれを支えた考え方にはほとんど触れていないし、 1966年の『現実と創造 丹下健三 1946〜1958』以来、年を追って作品集をまとめてはいるが、新作写真集の性格が強い。

私自身のことを申せば、 11年ほど前、戦後すぐのことを聞ける手はずで、インタビューに出かけたところ、「君は過ぎたことばかり聞きたがるが、昔話は半分にして、今の関心を半分しゃべりたい」と申され、完成したばかりの東京都新庁舎の話が中心になってしまった。それでも、日本近代建築史研究の一環として、 1984年、 1986年と二度のインタビューの機会を得ていたし、丹下関係のオリジナル資料をコツコツポツポツと集めていた。どう使うかは考えないまま。

変化が起きたのは、 1995年で、アメリカの美術史研究者に求められ、一緒に丹下の故郷の今治にお姉さんと妹さんを訪ね、少年時代のあれこれを聞いた。これが契機となり、丹下夫妻と改めて会うと、「自分もようやく昔を振り返る気持ちになりました」。

かくして、評伝と全作品をまとめることになり、丹下家と丹下事務所の家捜し的資料調査が始まるのだが、この段階では、どのようにまとめ、どこから出版するのかは決まっていなかった。さいわい、新建築社から申し出があり、版元が決まる。内容も決まり、丹下が提供する資料と私が書く評伝のふたつを中心とし、両者の共著とすることになった。

しかし、それまでコツコツ続けてきた資料集めと、丹下側の家捜し的調査にもかかわらず、丹下の全体像を明らかにするには足りないので、『新建築』誌上に「丹下健三とその時代」と題する関係者へのインタビューを連載することになり、高山英華、清家清、石元泰博、大谷幸夫、川添登、神谷宏治、槇文彦、菊竹清訓、磯崎新、渡辺定夫、川口衞、黒川紀章に貴重な話を伺うことができた(1998年l月号から1999年11月号まで)。『新建築』誌上には出さなかったけれど、谷口吉生にも聞いている。もしこれに浜口隆一と浅田孝のふたりを加えれば完壁な顔ぶれとなるが、すでに幽明境を異にしているのだから仕方がない。浜口と浅田と西山夘三、今泉善ーには、生前、別の機会にインタビューしたのが、このたび生きることとなる。こうした関係者の肉声なしにこの評伝は成り立たなかったし、たとえ成り立ってもずいぶん痩せたものにしかならなかったろう。

おそらく、インタビューを含め、図面、写真、文献といった丹下関係資料の発掘という点では、このたびの企画で相当部分が明らかになったと自負しているが、一方、大きな欠があって、スコピエ都心部再建計画やイエルバ・ブエナ・センター再開発計画といった丹下と世界の戦後都市デザインを考えるうえで重要な海外での計画の現地資料は手つかずの状態にある。先週、スコピエから帰ってきたばかりの国広ジョージによれば、模型をはじめとする大量のオリジナル資料がホコリをかぶって保存されているとのことである。

さて最後に、評伝部分について述べさせていただければ、思いの外、長いものになった。丹下が若き日に書いた文章を読み、各地の作品を訪れるにつれ、グイグイ引き込まれるだけでなく、背筋が伸びる思いを禁じ得なかった。背筋を伸ばし、もてるすべてをもって正面からあたるしかない。そして、 7年かかり、長い文になった。
このようなチャンスを与えてくださった丹下健三先生と関係者に、深く感謝いたします。

2002年8月
藤森照信


目次

第1章 生い立ち(章ごとでも配信中!)

生い立ち
日本のモダニズム
社会政策派
マルクス主義の流れ

第2章 学生時代(章ごとでも配信中!)

マルクス主義への傾斜と離脱
卒業設計

第3章 修行時代──前川事務所にて(章ごとでも配信中!)

MICHELANGELO頌
ハイデガーと出会う
岸記念体育会館

第4章 戦時下のデビュー(章ごとでも配信中!)

伝統の問題
大東亜コンペ
国民建築様式

第5章 戦争の果て(章ごとでも配信中!)

在盤谷コンペ
戦争とモダニズム

第6章 焼け野原にて

NAUの時代
戦後復興都市計画

第7章 広島ピースセンター

広島平和記念カトリック聖堂コンペに始まる
広島ピースセンターコンペ
第8回CIAM大会で発表
[作品]
広島平和記念カトリック聖堂 1948
広島ピースセンター 1952-1955

第8章 柱梁の系譜

香川県庁舎にきわまるもの
伝統論争
[作品]
展覧会と舞台の構成 1947-1958
住居 1953
東京都庁舎 1957
清水市庁舎 1954
津田塾大学図書館 1954
倉吉市庁舎 1957
香川県庁舎 1958

第9章 シェルの系譜

[作品]
広島子供の家 1953
愛媛県民館 1953
図書印刷原町工場 1955
駿府会館 1957

第10章 壁との格闘

[作品]
旧草月会館 1958
墨会館 1957
今治市庁舎・公会堂 1958
電通大阪支社 1960
熱海ガーデンホテル 1961
倉敷市庁舎 1960

第11章 彫刻的表現

[作品]
WHO(世界保健機構)本部計画 1960
日南市文化センター 1962
戸塚カントリークラブ・クラブハウス 1961
香川県立体育館 1964
東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964
戦没学徒記念館 1966

第12章 東京オリンピックプール

東京オリンピック
ソヴィエト・パレスから東京オリンピックプールへ
[作品]
国立屋内総合競技場 1964

第13章 東京計画1960

加納構想に始まる
CIAMの最後とメタボリズム
東京計画1960
[作品]
25,000人のためのコミュニティ計画 1960
東京計画1960──その構造改革の提案 1960
東京計画1986 1986

第14章 都市と海外への転身

都市デザインへの転身と大阪万博
日本から海外の建築へ
海外での都市デザイン
[作品]
築地再開発計画 1964
山梨文化会館 1966
スコピエ都心部再建計画 1965-
静岡新聞・静岡放送東京支社 1967
日本万国博覧会会場・基幹施設計画 1970
ミネアポリス・アート・コンプレックス 1976
ボローニャ・フィエラ地区センター 1987-
サウジアラビア王国国家宮殿 1982
キング・ファイサル財団コンプレックス 1984
シンガポールのオフィスビル群
グラン・テクラン(パリ・イタリア広場) 1992
ナポリ市新都心計画 1995
ナンヤン工科大学 1986
セーヌ左岸都市計画 1990-1993
サイゴン・サウス・プロジェクト 1993-1996

第15章 新都庁舎コンペ──帰ってきた丹下

新都庁コンペ
21世紀の初頭に
[作品]
草月会館 1977
赤坂プリンスホテル新館 1982
横浜美術館 1989
東京都新庁舎 1991
愛媛県県民文化会館 1985
シンガポール・インドア・スタジアム 1989
新宿パークタワー 1994
ニース国立東洋美術館 1998
東京ドームホテル 2000
フジテレビ本社ビル 1996
BMWイタリア本社ビル 1998



作品年譜
作品分布地図
丹下健三経歴
主な著書 主な論文・評論
歴代協力者および所員 現スタッフ

『丹下健三』再刷プロジェクト進行中です!再刷プロジェクトはみなさんの応援で実現します!ぜひみなさんの応援でプロジェクトを成立させてください!
プロジェクト成立には183/400人の応援が必要です!シェアでの応援もぜひお願いします!
下記にフォームが表示されない方はこちらからご記入をお願いします!